剣形:平造り、三つ棟。身幅重ねとも尋常に内反りごころの気品のある造り込み。元重ね厚く先重ねのやや薄い造り込みにふくらやや枯れごころ、端整に引き締まった姿をしている。(刀身拡大写真)(刀身押形)
鍛肌:美しく詰んだ精緻な板目肌の地鉄には、良質の地沸が全面に厚く敷かれ地映りで覆われて鉄色冴える。
刃文:焼刃の匂口締まりごころに、広い大乱れの互の目乱れは箱がかった刃、腰の開いた互の目、角がかった刃や尖り刃を交え、処々沸づいて跳び焼、棟焼となって、ふくら付近には湯走り掛かり皆焼となる。刃中の良質な匂は明るく煌めいて、長短の足は葉を伴って刃先に放射し、足を跨いだ繊細な砂流しが頻りとかかる。
帽子:たっぷりと健全に焼刃き高く、刃縁の小沸さらに厚くついて乱れこんで地蔵帽子となる。深く焼き下げて棟焼きに繋がる。
茎:生ぶ、目釘孔壱個。刃上がりの浅い栗尻。檜垣の鑢目に棟小肉付く。佩表のやや下方棟寄りに端整な二字銘で『兼定』とある。
室町時代、応仁の乱から戦国時代へ移行する時期は、土岐氏の衰退による守護代斉藤氏の台頭により、美濃国の刀工群はさらに上質の鋼を用いて美術的にも優れた作品が生み出されるようになり中興の活況を呈するようになる。
『和泉守兼定(之定)』と『兼元(孫六)』は業物列位で『最上大業物』として戦国武将に愛玩され、藤代義雄氏はその著書「刀工辞典」で『和泉守兼定(之定)』と『兼元(孫六)』両工を『最上作』に指定している。
和泉守兼定(之定)は明応八年以降頃から兼定の『定』のウ冠下を「之」と切ることから『之定』と呼称されている。同工の製作期間は、『定』のウ冠下を楷書体で「疋」と切った平造脇差『濃州関住人兼定 文明四年八月日』を以て同工の最初期銘とし、『之定』銘の刀『和泉守兼定作 大永六年正月吉日』に至るまでの五十四年間としている。
同工の年紀作から勘案すると、文明四年(1472)から少なくとも明応八年(1499)までは『定』の字を楷書で切っており、明応十年紀の薙刀では楷書の『定』の字を草書体の所謂『之定』へと改めている。
和泉守兼定(之定)は刀工としてはじめて、国司の任官受領銘を用いたとされ誉れ高い。押型・現存資料によると、和泉守の任官は永正五年頃から同七年の範囲であろう。それまでの備前などの刀剣産地においては刀工が銘に官職名を用いることはあったが、それらは「左兵衛門尉」や「修理亮」といった中央官僚の官職名であり、特に室町時代以降は朝廷から許されたものではなく、通称として用いられ非公式なものであった。これに対して、兼定(之定)が「和泉守」を正式に任官したのは、美濃国守護代であった斉藤利隆の尽力があったとされている。
表題の短刀は同工の作風では稀有な皆焼相州伝を明示している。明応頃の作刀や『和泉守』任官前とみられる初期の作刀時期を中心として、焼幅広く、互の目の頭がやや左右に広がって角味を帯びたものや腰の開いた互の目が四つ、五つまとまって配置される特徴があり、また本作のように跳焼きや棟焼きが頻りとかかり皆焼刃となる作品も観られて多彩な作風を魅せもっとも華やかな印象がある。さらには、後年の『和泉守』任官後の短刀の多くは精緻な地鉄鍛の気品のある体躯に直刃をやいて山城国の名工、来一派の作品に範を採った直刃のものが多くなるようである。
細やかな檜垣鑢を施された凛とした茎の仕立ては至高の錆味を有し、端整な二字銘は同工『之定』の特徴が明示され名匠の気迫と風格が滲みでている。
金着二重はばき、白鞘入
※和泉守兼定(之定)の鏨銘は、『兼』の字の第二画目と第三画目の鏨が同方向に連ねてながれ、第九画目の鏨は下から上へと打ち上げ、さらに、十・十一・十二画目は右から左へと同方向に打たれている。また『定』の字の第一画目が下から左上に向かって打たれている手癖がある。この刻銘の特徴は二代兼定の『ノ定』銘をつうじて、楷書体の明応年紀の作品やさらに遡る文明年紀の作刀にも同様の特徴が顕れている。